日本陸海軍機大百科、『九六式艦戦四号』[A5M4] 2010
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日曜日

 シリーズ第一五弾は、艦上戦闘機『九六式艦戦四号』だ。1930年代前半、欧米列強国の軍用設計は、それまでの複葉布張り構造から近代的な全金属製単葉応力外皮構造へ変革しつつあった。日本陸、海軍は欧米列強国に少し遅れをとった苦しい状況下にあったが、そのような中で、以後の日本軍用機設計に一つの道標をもたらしたのが、海軍の九試単座戦闘機であった。その設計主務者こそ、後に希代の名機、ゼロ戦を生み出した三菱の堀越次郎技師だった。欧米列強国の流儀とは異なったポリシーで果敢に挑戦して設計した九試単戦は、さらに改良されて九六式艦上戦闘機へと昇華していくことになった。昭和11(1936)年11月19日、中島に競い勝ち九六式一号機艦上戦闘機として制式兵器採用されたのだった。

■海軍の航空自立計画
 明治末期の軍航空草創以来、海軍は装備する主要機種の大半を欧米航空先進国からの輸入とライセンス生産、あるいは改良によって賄ってきた。しかし、昭和5(1930)年頃になっても同じ状況だったことに上層部内では危機感を感じ始め、打開策が講じられることになった。いつまでも外国に頼ってばかりいては、一朝有事の際に日本の国防が危うい。そこで装備機のすべてを日本人技師の設計、製造で賄ういわゆる「航空自立計画」なる要綱を定め、昭和7(1932)年度から実施することとなった。

■不採用となった堀越技師最初の七試試作機
 中島と三菱に試作機を命じられた艦上戦闘機は、三菱は英断を以て入社5年目(当時28歳)の堀越技師を設計主務者に配して望んだが、経験不足もあって熱意が空回りし、設計・性能共に悪く、中島機ともども敢えなく不採用を通知された。

■九試試作単座戦闘機のリベンジ
 要求性能は速度(190kt=351.8km/h)と上昇力(高度5,000mまで6分30秒以内)の2つしかなく、航続力は燃料200リットルと記されているのみで、至って簡単だった。七試観戦で試みた全金属製低翼単葉携帯へ挑戦し、空気力学的には、より一層の洗練が必要とした。

パソコンのモニターの前で撮影

『九六式艦戦四号』[A5M4]

■競争相手の発動機を搭載する英断
 機体の1号機は”逆ガル翼”は大迎え角姿勢の際、その屈折部に気流の乱れを生じ、操縦安定性を損ねることが判明したため、2号機では中央翼は水平に、外翼にのみ上反角を耽る通常のスタイルに改められた。また、胴体を含め外板を骨組みに留める鋲(リベット)は、それまで丸い頭が表面に突出するのが当たり前だったが、これさえも空気抵抗上のマイナス要因になるとして、自ら平らな頭にするいわゆる”沈頭鋲”を考案し、採用した。胴体は、細い楕円形断面の全金属製セミ・モノコック構造にし、操縦席の上方への設置は控えめにし、長さも七試より増した。

 しかし、一番の紆余曲折は発動機だろう。当初は、競・試相手の中島製「寿」五型空冷星形9気筒(600hp)を搭載発動機に決めた。これはテスト段階で450km/hに達し、快挙であったが、発動機にケチがついた。中島製「寿」五型が、テスト途中から減速歯車にトラブルが生じて使用に耐えなかった。「寿」三型(715hp)→「光」一型(800hp)→「光」二型(630hp)→三菱試作中発動機A-0(630hp)→A-8(730hp)にまで対象を広げ、発動機のテスト・ベッドの感を呈した。堀越技師の心中は暗澹たるものだったのだろう。最終的には、出力面に不満はあるものの、実用性に難が少ない中島製「寿」二型改一(630hp)を、取り敢えず急場の搭載発動機として量産に入ることになった。

 次回は『九七式艦上攻撃機一二型』をお楽しみに。(2010/04/11 19:57)

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