日本陸海軍機大百科、『紫電』二一型[N1K2-J] 2009
12/20
日曜日

 シリーズ第六弾は、川西航空機の局地戦闘機『紫電改』だ。かつて南太平洋を席巻した零戦もすっかり老いて、ほとんど抵抗力を失っていた。そんな日本海軍戦闘隊に、待望の2,000馬力級高性能新型機が出現した。通称「紫電改」と呼ばれた。日本側の防空戦闘機をすっかりみくびっていたアメリカ軍機に初陣で圧倒的な強さを見せつけ、戦勢挽回の切り札になるかと思わせた。しかし、その登場はあまりにも遅きに失した。

 川西といえば「二式大型飛行艇」にみられる飛行艇や水上機が得意だが、将来的に需要拡大の可能性があり、確実に利益を上げられる陸上機の開発に着手すべき、として社の方針転換を図った。すぐさま、その方針に従って当時試作中の「一五試水上戦闘機(のちの「強風」)を母体にした仮称一号局地戦闘機の設計案を海軍に提案、受理され、開発に踏み切った。そして、昭和17(1942)年12月31日には原型1号機の初飛行にこぎつけた。この機体はのちに「紫電」と命名され、旧式化が目立ち始めた「零戦」後継機として海軍から大きな期待をかけられることになった。

 試作機「紫電」の直面した厳しい現実は試作・実用テストが進められる過程で種々の欠陥が露呈した。その改修には長期を要し、即戦力とはとても望めないものとなった。中島飛行機の発動機「誉」とVDM4翔プロペラが不調、故障を頻発した。そこで発動機とプロペラの改修に長期間を要することがわかった川西は「紫電」の実用化に全力を注ぐのと併行し、新たな一手を打った。機体設計上の問題を根本から改めるために、大幅な再設計を施す案を海軍当局に提出、昭和18(1943)年3月、改めて「仮称一号局地戦闘機改」の名称で設計作業がスタートした。大きな改造のポイントとしては、
・空力面の洗練を施した胴体
→胴体を発動機「火星」に併せて造られていた「強風」の寸胴イメージから「誉」発動機に併せて修正、空気力学面での洗練さを増した。
・主翼は中翼配置の主翼を低翼配置に変更
→悪評だった収縮式の複雑な構造を持つ長い主脚がシンプルかつ相応な長さに改められる。また垂直尾翼も一新、方向蛇は胴体下端までとした。
・生産性向上を考慮した機体
→構造部品の整理、統合を徹底し、「紫電」1機が約66,000個の部品から成っていたのに対し、約43,000個とほぼ2/3に減少させ、生産効率が相当に向上した。
 そのような努力もあり、作業着手からわずか10ヶ月とう異例の早さで完成にこぎつけた。昭和18(1943)年12月末のことだった。

 紫電改の配備先は第三四三海軍航空隊(二代目「剣」)となった。昭和20(1945)年2月半ばのことであった。初陣は3月19日早朝、四国沖合に接近してきたアメリカ海軍機動隊が、瀬戸内海に面した日本海軍根拠施設、および停泊中の艦船群などを目標に、のべ約1,100機が艦載機を伴って空襲をかけてきた。2時間余りの空中戦で三四三空はF4U/F6Fを48機、SB2Cを4機の52機を撃墜、味方損害は自爆/未帰還16機、地上炎上5機、不時着・損傷数で勝利だった。が、その後、奮闘するも、各隊長はすべて戦死、幹部搭乗員の多くを失い、まさに刃折れ、矢尽きた状況であった。

青空をバックに撮影してみた

川西 局地戦闘機『紫電』二一型

 紫電改の装備・技術面としては、「水銀式センサーのフラップ自動制御システム(自動空戦フラップ)」が挙げられるだろう。フラップは通常、離着陸(艦)時にのみ使用する装置だが、空中戦の最中にもこれを使用すれば旋回半径を小さく出来ると考えたのは中島飛行機だった。中島の「蝶型下げ翼」(※操縦士が操縦桿頂部に付けられた2つのボタンを操作することにより、空中戦の最中でも照準器から目を離すことなく、フラップを上げ下げできるように工夫されていた。)

 しかし、一瞬の間に状況が刻々と変転する空中戦では、操縦士がフラップの使用を判断する余裕はない。その上、押しボタンを操作してフラップが作動するまでの僅かなタイムラグでさえも、その使用機会を失してしまうのが現実であった。つまり利用価値はあまり高くなかった。

 川西得意の新技術に底なしのファイトを見せた彼らは「蝶型下げ翼」にも強い関心を抱いていた。そして、独自設計の「空中フラップ」として研究、実験を行った。操縦士がマニュアルで操作していたのでは、実際に使用する機会がないこともわかっていた。川西は、これを水銀式センサーを利用し、自動システムに昇華させてモノにしようと考えた。これは、空中戦に入る前にスイッチを入れておけば、機体の速度や重力の変化に水銀センサーが感知し、電気信号が油圧装置をコントロールして、フラップの上げ下げを自動的に行うという方法である。苦労を重ねた挙げ句、信頼性を上げ、実用域に達し、紫電改にも実装された。因みに、フラップの最大下げ角は30度で「零戦」の60度に較べると半分の範囲でしかない。これは「零戦」五二型に較べ1.5トンも重い「紫電改」だけに、フラップが風圧に耐えられる強度の限界によるものであった。

 成果はどうであったか?当時、昭和20年時の空中戦形態は一撃離脱戦術で、高度差を利用し、高度を優位に戦うことが前提であった。初戦のように巴戦的な一対一の戦法はとられなくなっていた。すなわち、垂直面の機動が主流になっており、旋回運動時に効果のある自動空戦フラップを使う機会が少なかったと察せられる。

 この「空戦フラップ」の技術は、航空技術では外国の模倣、技術導入で立ち上がってきた日本航空界にあっては、高い評価と言える。総括すると、紫電二一型の活躍期間はわずが5ヶ月、生産数も450機余りにとどまり、海軍が期待した「零戦」に代わるべき主力機というものには、ほど遠い結果に終わった。いつもより長文となってしまった。一般の方には読み飽きるでしょうからこの辺で。次回は、陸軍の「九七式戦闘機[キ27」」を紹介しよう。

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