『修理屋』バーナード・マラマッド(著) 2015
9/19
土曜日

マラマッド(マラムードと読むこと?もある-malamud-)作品は、アシスタントに続く二作目を読んだ。ユダヤ人街の貧困地帯に住む修理屋の青年が、仕事を求めキエフに行くのだが、ユダヤ人であることを隠し仕事をする。そして云われないこじつけに等しいの少年惨殺の被疑をかけられ投獄されてしまう。時代は日露戦争が終わった頃、ロシア革命が蜂起した時期でもあった。

我々、日本人には私も含めてユダヤ人を漠然とした捉え方しかしていないのではないか。ヒトラーによる大虐殺(ホロコースト)、商売上手などなど。キリストVSユダヤの癒着もあるのだが、本書では迷信とされるキリスト教の新鮮な子供の血をパンに混ぜて食す、これも主人公が子供を殺したとする血の入った瓶をはじめとした証拠物件のひとつにされた。獄中の生活について多くの出来事が割かれている。これまた、独房、鎖、南京虫の浮かぶ餌、熱さ、凍える寒さ、獄長、看守による折檻、屈辱的な身体検査、正義はどこにいったのだ、なのであるが、彼の無実を証明しようとした捜査部長は暗殺され・・・ このあたりで止めておきましょう。

マラマッド自身、ロシア系ユダヤ移民であることからも本書に記することはユダヤ人のルーツを探求し、広く公に知らしめたい渇望があったのではないか。「自由を求める闘いのないところに自由はない」と。ここでマラマッドは何を訴えたいのか? テーマは多岐に言及できる。割愛しますが・・うまく言えないし・・

ここで諸外国の宗教観、カトリック、プロテスタント派やどれだけあるのか知らぬが宗派間にも親和性がよいもの、疎結合で相互乗り入れが許されないものもあるのだろう。体と心と日常に染みついた「宗教」という塗り薬、飲み薬はなくてはならない空気と水のような生活必需日とも僕には映る。

さて、私の感覚でいえば、何故ゆえに神に助けを求め、神に赦しを乞い、神に感謝の気持ちを捧げ、多くの事柄を神に関連付けるのだろうか。私の考えは、『自分が考え、したこと、しなかったことの結果が今にある』のであり、良いも悪いも自分自身が受け入れましょう。都合よく神に責任転嫁しすぎではないか。不幸があれば神に懇願し「なぜ神はこの私を・・・」 私にすれば「うるわいわ、黙れ、お前が撒いた種じゃ」とぼやきたくなる無神論者である。

神に題する本は何冊も読んだが、私が最大にしっくりする考え方は何かといえば「神はそれぞれ自分自身の中にいる」というものだ。決して自分は神のような存在で、あらゆるパワーがあるのだということではない。自分の最大の味方は自分であり、誰よりも自分のことを理解しているのは自分である。心に棲みついている「それ」を神と呼ぶのなら、いつもどこでも対峙してくれる「それ」を大事にしようではないか、といったところか。詰まるところ、「自分を大切に、大事にしましょう」ということに他ならないと感じるのである。これは賛同するでしょう、誰しも。

兎にも角にも、読み物として、多少じれったい部分もあるが、この先どうなるんだ冷や冷や感で本書を手に取るのも悪かない。最後まで離脱せず読み通せることを保証する。

修理屋 (1969年) (ハヤカワ・ノヴェルズ)
バーナード・マラムード 橋本 福夫
B000J94IFK
登録情報
-: 429ページ
出版社: 早川書房 (1969)
ASIN: B000J94IFK
発売日: 1969







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