いつも認められたいのはなぜ?(承認中毒)

2012
1/19
木曜日

最近、『いやな気分よ、さようなら』から『いつも認められたいのはなぜ?』をピックアップしてみよう。

〈増補改訂 第2版〉いやな気分よ、さようなら―自分で学ぶ「抑うつ」克服法
デビッド・D.バーンズ 山岡 功一 夏苅 郁子
David D. Burns 佐藤 美奈子 林 建郎 小池 梨花

4791102061

内容(「BOOK」データベースより)
認知療法の気分改善効果は、驚くべきものである。うつ病に対して、抗うつ薬と同等か、それ以上の治療効果があると証明された初めての精神療法、それが認知療法である。本書は、人生を明るく生き、憂うつな気分をなくすための認知療法と呼ばれる最新の科学的方法を示す。抑うつ気分を改善し、自分の気分をコントロールする方法を身につけるための最適の書。


◆なぜ他人に反対されることがそんなに怖いのでしょう?


あなたは次のようなことを考える。
 「誰かが自分に反対ということは、皆が私に反対していることを意味する。
 つまり私には何か間違いがあるに違いない」と。

このような考え方をすれば、人から反対される度に気分が悪くなってしまう
逆に、「褒められたときには気分が良くなれる」と言うかもしれない。

しかし、なぜこの考え方が不都合かと言えば、
自分の気分を高めるのは自分自身の考え方しかないということを見逃している
から。

他人の賛成などは自分でそれをもっと納得しなければ、気分に何の影響も与えない。
よって、例え褒められたとしても、自分の気分を良くさせるのは結局はあなたの考え方次第

たとえば、あなたに非現実的な迷信や、恐喝紛いで悪魔的な説法や、空虚で神がかりな新興宗教的な教えであなたを信じ込ませようとしたとしよう。

あなたはそれは現実的ではないと判っている。
その言葉に確信がないと自分で判っている。
そのようなことがあったとして、あなたはそれらの言葉を信じるだろうか?
あなたの感じ方に働きかけるのはただ自分自身の確信だけなのだと。

他人はあなたについてどんなことでも、良いことでも悪いことでも、言ったり、思ったりできるが、
あなたの感情に影響を与えられるのは実はあなただけなのだ。

褒められることばかり求めると、他人の意見ばかりに左右されるようになる。
ちょうど薬の中毒のように、禁断症状の苦しさを避けようとして絶えず礼賛され続けなければならなくなる

あなたにとって重要な人に反対されたらもはや「ヤク」を失った中毒患者のように痛々しく潰されてしまうだろう。

つまり他人にコントロールされることになる

拒絶されたり軽蔑されたりするのを恐れすぎると、自分のしたいことより
他人の求めていることを優先しなければなくなる


これは感情的な恐喝にあっているようなもの。

他人からの承認だけに頼っても得にならないことに気付いただろうか?

それでもまだあなたの言動の長所だけでなく、人間としての価値を裁く権利が他人に本当にあると思い込んでいないだろうか?

妄想壁のある人があなたに近づいてきてこう言う。
「赤いシャツを着ているね。これはあんたが悪魔という証拠だ。あんたは悪霊だ。」
気持ち悪いヤツと思っても、不快感を感じるにしても、これであなたはいやな気分になるか?
もちろん違うだろう。
そのことで心を乱されたり気分を害してしまうことはないだろう。

ではなぜこの言葉に心を乱されることはなかったのだろう。
簡単なこと。
あなたに言われたことを本当に信じなかったから
他人からの批判に巻き込まれなければ、嫌な感じは受けない。

誰かに非難されても、それが「批判した人の」問題だったことが今までになかったか?
非難は単に批判する人の道理の通らない考え方の反映であることが多い

極端な例をとれば、ヒットラーのユダヤ人が劣等だという忌むべき教理も、
ユダヤ人の問題を反映してはなく、むしろヒットラーの方の問題だろう。

もちろん、非難があなたの本当の誤りの結果、起こる場合も多くあるだろう。
しかしそれであなたが価値がなく、良いところもない人間だということになるだろうか。

違うでしょう。
他人の否定的な受け答えは、直接あなたのした特定のことに対して向いているわけで、
あなたの価値に向いているものではない。
人間というものは「常に」誤ったことをしているわけではない。

いまだに「賞賛=価値」という図式を信じているのだろうか

賞賛が人を「良い気分」にさせることは事実。
そのことに間違いはない。
それは自然で正常なこと。
同時に、非難と拒絶は通常苦味があって不快なものということも事実。
これは人間的なことであるし、理解出来ること。

しかし賛成と批判が常に正しく、自分の価値を測る最大の物差しと想い続けるのなら、
深く、荒れた海を泳ぎ続けているようなもの


今までに、誰かを批判したり、友達の意見に反対したことがあるだろう。
子どもしたことを叱ったり、イライラしているときに恋人に当たったこともあるはずだ。
また気の合わない人と付き合うのをやめたことがあるだろう。

そのときのことを思い出してみてほしい。

あなたが人に反対したり、批判したり、非難したときにでも、その人が完全に
無価値で役立たずの人間だというふうに判断したか?

他人に対して、このような決定的な判断を下す力をあなたは持っているのだろうか?

それとも単に視点の違いのために、その人の言ったことや、やったことにイライラしただけのことだろうか?

たとえば、怒りにまかせて連れ合い(夫、妻)にうっかり「この役立たず!」と怒鳴ってしまったとする。
しかしその怒りが一日二日で治まった後には、連れ合いの「悪い点」を誇張してしまったと自分で認めるだろう。
確かに連れ合いにも欠点があるだろう。
それに対する批判を全部ぶちまけてもよいのだろうか。

もしあなたが相手を非難して、相手の人生の意味や価値を崩壊してしまう権利がないとすれば、
同様に「他人の」批判にあなたの自己価値観を揺さぶる力もないのではないだろうか。

なぜ「他人のこと」だけを特別扱いするのか?

           
誰かに嫌われていると思って、その恐怖に身震いしている時には
その人の考え方を拡大解釈して、
逆に自分自身のことについては低い評価しかできなくなっている


もちろん誰かに行動の欠点や考え方の違いを指摘されることもあるだろう。
でもそれは歓迎すべきこと
それで学ぶことができるから

結局、私たちは皆不完全であり、他人はそのことを私たちに教えてくれる役割を持っている。

それでも、誰かに約束を違えられたり、扱き下ろされる度に自分を惨めに思い、
自己嫌悪に陥ることに甘んじていて平気なのかい?


次回は、「承認されたい」ことの問題の源(根底)について触れたい。







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