10年もここに住んでいながら新聞を購読したことがなかった。
この7月から半年契約をした。(業界用語では”シバリ”という)
読売新聞は、1980年、読売新聞育英奨学生にもなり、大阪のとある地域で、奴隷のようにこき使われたにも係わらず、何故か懐かしくもあり恩義を感じる。
新聞は、トップ、政治、総合、国際、経済、環境はまあまあ丁寧に読むが、スポーツ、文化、家庭、くらし、社会は見出しを見て興味のある記事を適当に読む。
新聞のコラム欄や投稿で『日本語が乱れている』、と記事があった。
「ら抜き」や「□っ」を使うことを皆さんはどう思われるだろうか?
ひとつは、久しくいわれている「ら抜き言葉」。
「来れない」ではなく、「来られない」が正解。
ウィッキペディアでは、”「ら抜き言葉」の使用は関東地方においては大正期から始まったが、この傾向は国家の教育方針のもとで抑制されてきた。”とある。
僕としてはブログでは「ら抜き」を意識することもあるが、「来れない」の方が自然でスッキリする。
もうひとつは、「□っ」という若者浸透言葉。
やばっ
すごっ
うるさっ
きもっ
などなど。
如何にも、やばそうで、凄そうで、うるさそうで、気持ち悪そうではないか。
緊迫感とスピード感に満ち溢れている。
なかなかおつだ。
例えば「痛っ」というのは、赤ちゃんから棺桶に片脚を突っ込んだお年寄りまでが疑うことなく使うだろう。
決して、「おいとうございます」とは言えないものだ。
「痛っ」「熱っ」「寒っ」「暑っ」の痛点系、
「甘っ」「辛っ」「苦っ」酔っぱ」の舌の味覚系、
これはダントツで、全世代をカバーしているとも言える。
「国語世論調査」では大半が”気にならない”と定着してきたようだ。
これらの風潮で思い出す歌は、日吉ミミ/男と女のお話(1970)だ。
60万枚を超える大ヒットを記録したそうだ。(ウィッキペディア参照)
僕は小学三年生だった。
今でも脳裏に強烈にへばり付き、離れないフレーズがある。
(僕以上の年代には心に沁みるはずだ、間違いない)
「♪世の中 変わっているんだよ 人の心も 変わるのさ♪」
つまり「ら抜き言葉」も「□っ」も「世の中 変わっているんだよ」で
ズバッと斬って捨てようではないか。
-いや、これって失恋の歌じゃないの?-
そうかも! (2011/09/27 7:55)
日吉ミミさんのご冥福をお祈りいたします。
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