■室町時代 |
安房里見氏の出城(鋸城)にて、柱のツカ石として使用される。 |
■江戸時代 |
安城の頃、伊豆の石切職人が渡来し鋸山周辺で建築用に石切を始める(土円岩)、更に万延、元治、慶応の頃になるとそれまでの悪い石(下石)から質の良い石(上石)の採石が盛んになり、石切場も鋸山本峰に移った。1895年には横浜開港に伴い、護岸工事用材、土木工事材として優秀性が認められ生産も大規模化された。 |
■明治時代 |
文明開化に伴い、房州石の需要もますます増え、京浜地方、特に横浜市、横須賀市の公共事業指定石材にもなり、金谷地区の総人口の80%が石材産業に従事していた。 |
■大正時代 |
この年12年9月1日発生した関東大震災で多くの護岸が崩れ、石積みの時代からセメント工法による時代に移る。しかし、横須賀追浜天神橋護岸、横浜市高島桟橋護岸、更に多くの石堀や石倉が今でもびくともせず現存している。 |
■昭和時代 |
セメントの進出により、採石産業も衰退し更に軍国主義のなか、鋸山も登山禁止となる。わずかに軍需用としての下石採石が細々と行われた。戦後、採石も機械化され、一時パン焼きカマドなどに使用されたが、それも終わりを告げ反映祖誇った採石後は、その奇岩、怪石とともにその景観美は、現在国立公園にも指定され、多くの人々の眼を楽しませている。 |