『白い航跡』吉村昭著 2010
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月曜日

 吉村昭著の『白い航跡(上下巻)』を読み終えた。語られる高木兼寛(かねひろ)は、嘉永元年(1848年)に宮崎は大工棟梁の一人息子として生まれ、功績としては、海軍の脚気患者を根絶させた海軍医総監まで上り詰めた希有な秀才・努力家でもあった。

 江戸幕末の、新政府軍と幕府側へついた藩主との戦から書き出しは始まる。いつもながら、吉村昭氏の緻密な調査で、時代背景が語られている。徳川幕府解体、明治維新の動乱、廃藩置県、西南戦争、文明開化の様子、日清戦争、日露戦争へ導かれていく歴史的背景も判りやすく書かれて事実史としても貴重だ。

 そんな中、若干20歳の兼寛は軍医として、薩摩藩に同行するが、負傷者に何ら対処すべく術もない自分の未熟さと、西洋医学に学んだ医師が、神の手ともいうべき施術するさまを見て彼は奮起する。師と仰ぐ石神、実践を教えたウイリス、たくさんの協力者が彼を支える。更に勉学に励み、海軍からロンドンのセント・トーマスに学ぶ。猛勉強し、イギリスの医学で最高学位を授与されるまでとなる。

 さて、帰国後、詳細は割愛するが、脚気は「細菌原因説」とする陸軍と、「食物原因説」とする兼寛が真っ向から対立する羽目になる。海軍はイギリス式に、陸軍はドイツを模範とし、このころからやはり仲が悪いわ。日本の医学もドイツを模範に進んでいくことになり、イギリス式的な臨床医学で実証主義は邪道的な扱いをされるのだね。鴎外として知られる文壇の森林太朗(彼は陸軍軍医、総監となる)の熾烈な兼寛へのパッシング、このあたりのくだりも興味をそそられた。

 脚気(かっけ)の原因はお米を主食にすることに原因があると兼寛は推測し、それを検証し改善に取り組む。このあたりの彼の凄まじい働きかけと熱意が実を結んでいく。海軍は彼の功績により脚気は撲滅する。しかし、陸軍は細菌説を譲らず、なんの裏付けもない、理学的証拠もないのは信ずるに足りぬと、拒絶し無視する。陸軍戦地では兵に米を主食に食わせて、脚気で何千人も病死したのだよね。もっと麦を食わせれば死なずにすんだ兵隊も多かったのに残念。(※脚気はビタミンB不足が原因と特定される)

 貪るように一気呵成に読んだ。感銘した。勇気づけられた。

 さて、南極大陸には世界的に著名な栄養学者、ビタミン研究に著しい功績をあげた学者の名前が岬に付けられているそうで、日本人として唯一、カネヒロの岬が命名されている。由来は”日本帝国海軍の軍医総監であり、一八八二年、食餌の改善によって脚気の予防に初めて成功した人”とあるそうな。(2010/01/04 23:34)

文庫: 306ページ
出版社: 講談社; 新装版版 (2009/12/15)
ISBN-10: 4062765411
ISBN-13: 978-4062765411
発売日: 2009/12/15
文庫: 316ページ
出版社: 講談社; 新装版版 (2009/12/15)
ISBN-10: 406276542X
ISBN-13: 978-4062765428
発売日: 2009/12/15
内容(「BOOK」データベースより)
<上巻>薩摩藩の軍医として戊辰戦役に従軍した高木兼寛は、西洋医術を学んだ医師たちが傷病兵たちの肉を切り開き弾丸を取り出す姿を見聞し、自らの無力さを痛感すると同時に、まばゆい別世界にあこがれる。やがて海軍に入った兼寛は海外留学生としてイギリスに派遣され、抜群の成績で最新の医学を修め帰国した。
<下巻>海軍軍医総監に登りつめた高木兼寛は、海軍・陸軍軍人の病死原因として最大問題であった脚気予防に取り組む。兼寛の唱える「食物原因説」は、陸軍軍医部の中心である森林太郎(鴎外)の「細菌原因説」と真っ向から対決した。脚気の予防法を確立し、東京慈恵会医科大学を創立した男の生涯を描く歴史ロマン。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村 昭
1927年東京生まれ。学習院大学国文科中退。’66年『星への旅』で太宰治賞を受賞する。徹底した史実調査には定評があり『戦艦武蔵』で作家としての地位を確立。その後、菊池寛賞、吉川英治文学賞、毎日芸術賞、読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞、大佛次郎賞などを受賞する。日本芸術院会員。2006年79歳で他界(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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