音の壁を破った男、その名は”イエーガー” 2009
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木曜日

 昨日のブログの延長線上だけれど、6年位前に読んだ、『イエーガー』の本のことを”XS-1”のコクピットに座った時に思い出した。
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 イエーガー、フルネームでは”チャック・イエーガー、”音の壁を破った男”なのだね。

 、昨日の「航空科学博物館」にXS-1の胴体部分が展示されていた。キャノピーと機体が一体型になっていて、コクピットからの視界は悪い。これをテストパイロットとして操縦したのがチェック・イエーガーでね、彼の伝記ものだけれど、その本を紹介しましょう。

 どういった開発経緯で、音速へ突入していくのかがとてもわかるし、エリートではないイエーガーの生い立ちからが几帳面に書かれているノンフィクション。男のロマンといえば聞こえはいいけれど、テストパイロットはどんな挙動が機体に起こるかも知れぬ死と絶えず表裏だし、決して世間で華々しく注目を浴びるものでもなく、地味なものだと思う。

  第二次世界大戦中、日本でもジェットエンジンの開発はひそかに進められていた。橘花とか、秋水とかね。このXS-1はロケットエンジンでマッハの壁を破るのだけれどね、いやはや充分、読み応えのある本だよ。好きな人にはね。もう、絶版みたいだけれどね。ざんねーーん、でも中古はアマゾンでもありますから。

単行本: 463ページ
出版社: サンケイ出版 (1986/11)
ISBN-10: 4383025625
ISBN-13: 978-4383025621
発売日: 1986/11
内容(「BOOK」データベースより)
アメリカ南部、ウェスト・ヴァージニアの炭坑生まれの田舎者が、ヨーロッパの高空に愛機P‐51ムスタングを駆いドイツ軍を震撼させ、終戦後はテスト・パイロットとして活躍する。のちに米空軍の将軍となり、退役後フォード大統領より名誉勲章を授与されるまでの波瀾にみちた生涯を、妻、友人の証言をまじえて描いた異色の自伝。
(ウィッキペディアフリー百科事典より)
開発経緯と音速突破まで
 第二次世界大戦の影響もあり、1930年代から1940年代にかけてレシプロエンジンは急激に進化し、それに伴い航空機の速度も右肩上がりに増加していった。しかし航空機の速度が700km/hを超えるあたりになるとプロペラの先端や翼上面の空気流が音速(マッハ 1)に近づき、衝撃波が発生して空気の性質が激しく変化するようになる。抗力が急増すると共に、機体が異常な振動(バフェッティング)を起こし、場合によっては操縦不能、空中分解ということもあった。これがいわゆる音の壁である。

 レシプロエンジンの場合これがスピードの限界であり、音速飛行は夢の話であった。しかし1940年代になると、各国でジェットエンジンが開発されたことにより、音速飛行は現実味を帯びてきた。

 アメリカのベル社は1942年にアメリカ初のジェット戦闘機XP-59を開発し、1943年にはNACA(NASAの前身)に対して強力なジェットエンジンさえあれば超音速機を製作することは可能と表明していた。しかし、超音速飛行が可能とは言われていたが第二次大戦の影響で肝心の研究予算がなかなか降りず、陸軍航空隊資材部から研究予算が降りたのは1944年1月になってからであった。これにあわせるようにNACAは高速飛行審議会を設立した。

 1944年3月にはNACAと陸軍航空隊ライトフィールドの資材司令部技術部、海軍航空局の3者が今後の方針について検討をおこなった。その席で陸軍は今すぐにでもマッハ1を超える航空機の開発を要求。一方海軍はデータを取りながら慎重に開発を進める安全策を主張した。その結果、陸軍と海軍はそれぞれ別個に超音速機の開発をNACAと協力しておこなっていくこととなった。

 陸軍は5月に超音速実験機計画を最優先に指定し、以下ダイブによる遷音速飛行、P-80による遷音速飛行という3段構えで計画を進めていくこととした。機体開発メーカーはノースアメリカン社とリパブリック社の2社が候補として挙がっていたが、この2社は超音速機の開発を行う余裕はなかった。こうした中、11月にベル社の主任設計技師ロバート・ウッズは、この計画の重要人物であったイーズラ・コッチャー少佐に直接機体の製作を申し出て契約を取り付けた。

 その後高速飛行審議会と航空技術補給本部のコッチャー少佐とベル社は協議を重ね、1944年末には高速実験機計画 MX-524 の主な仕様を決定した。MX-524の当初の目標は、遷音速の研究で超音速飛行も視野に入れておくというもので、自力での離着陸を行えるなどの条件が含まれていた。しかしエンジンについて、ロケットエンジンに比べ非力だが燃焼時間の長いジェットエンジンにするか、ジェットエンジンに比べ強力だが燃焼時間の短いロケットエンジンにするかは決まっていなかった。胴体の形状は、当時存在した超音速飛翔体である12.7mm弾の形状をモデルとし、これに翼をつけたような形状となっていた。そのため風防も胴体と一体になっており、視界は決していいものではなかった。

XS-1
 その後 MX-524 は名称を MX-653 に変更し、1945年には XS-1 (eXperimental Supersonic-1) と名称が決定、3機の製造契約が正式にベル社と航空技術補給本部の間で結ばれた。それと同時にこの計画全体が機密扱いに指定された。

 XS-1のエンジンは揉めに揉めた末ロケットエンジンに決定し、リアクション・モーターズ社が開発中だったXLR11を使用することとなった。このロケットエンジンの推進剤は従来使用されていた硝酸とアニリンに比べ安全性に優れる液体酸素とアルコールの組み合わせとなっていた。しかしこのエンジンは膨大な燃料を消費するため、自力での離陸を諦め、B-29からの発進へと方針が転換された。

 XS-1に搭載されたXLR11エンジンの正式名称はXLR11-RM-3で、1基あたりの推力は680 kgf。XS-1にはこれが4基装備された。エンジンは推力の調整ができずオンかオフの2通りしかないが、4基のエンジンのオンとオフを調節することによって4段階の調節は可能である。燃料搭載量は液体酸素が1,177リットル、アルコールが1,110リットルとなっており、それぞれ主脚の前方と後方のタンクに装備されていた。

 機体強度は18Gまで耐えられるという異様なまでの強度を持ち合わせていた。これは、音速に入ると機体がどのような挙動を起こすかまったく見当もつかなかったためである。しかしパイロットは18Gに耐えられないため、無駄といえば無駄な強度といえる。なおXS-1には射出座席などの脱出装置は装備されていなかった。

 XS-1の主翼平面形状は超音速飛行に適する後退翼ではなく直線翼であった。これはNACAが後退翼の利点を知らなかったためではなく、当時まだ実績のなかった後退翼の使用をためらったためである。アスペクト比(翼幅の2乗を主翼面積で割った値。細長さを示す)は6.03とされた。翼厚については結論が出ず、1号機と2号機で別のタイプの主翼をつけることに決定した。主翼は強度を持たせるために1枚板からの削りだしで作られた。

 降着装置は当初ソリなども検討されたが、結局普通の車輪に落ち着いた。しかし機内スペースの問題から車輪はかなり短足となっている。また、大きな降下速度ともあいまって車輪が故障する事故も少なからず発生している。


【飛行開始】

 1946年1月25日にXS-1はエンジンと燃料タンクの代わりのおもりを積んでの初の滑空試験を行い、操縦性や失速特性のテスト後、パインキャッスル飛行場に着陸した。その後10回の滑空試験が行われたが、4回目の試験時に左主脚が引っ込み左翼を破損、修理した後の5回目の試験でも前脚が故障し機首を破損するという2度の事故に見舞われた。滑空試験が終わった後1号機はニューヨークの工場に戻り、エンジンなどの装備が行われた。

動力飛行の試験はカリフォルニア州のマロック乾湖においてXS-1の2号機で行われる事となった。XLR11の点火は1946年の12月9日の通算15回目(2号機で5回目)の飛行で初めて実施され、2基のエンジンでマッハ0.75(のちにマッハ0.795と判明)まで加速し、1947年1月17日には4基のエンジンすべてに点火してマッハ0.828を記録した。同年4月11日には翼厚比の小さい主翼を装備した1号機の動力飛行がおこなわれた。

ベル社は当初からマッハ0.8まで安全に操縦できる航空機の開発を求められていたが、これで要求は満たされ、安全性も証明されたため、XS-1は通算37回目の試験をもってベル社からNACAと航空資材本部(旧航空技術補給本部)へ正式に譲渡された。

XS-1はNACAと航空資材本部に渡った後に、実験の進め方について協議が行われた。NACAはデータを積み重ねながら音速に近づくべきとし、航空資材本部は一気に音速突破してしまおうと主張した結果、航空資材本部がXS-1の1号機を使用して、NACAがXS-1の2号機を使用してそれぞれ別々に試験を行っていくことになった。

◆チャック・イェーガー

 航空資材本部はテストパイロットの中から志願者を募り、その中からチャック・イェーガー大尉を抜擢、その他に技術面の補佐としてジャック・リドレイ大尉、予備のパイロットしてロバート・フーバー中尉を選定した。一方 NACA のパイロットはハーバート・フーバーとハワード・リリーの 2 名に決定した。また NACA で使用される 2 号機は耐火装備の改修が施され新型の燃料投棄装置などが装備された。

 航空資材本部は8月6日から滑空テストを開始し、8月29日にはイェーガーによる初の動力飛行でマッハ 0.85 を記録した。2 回目の動力飛行試験は送信装置の故障から地上へのデータ送信ができなかったが、後に機内の計器ではマッハ 0.9 を超えていたことが判明した。XS-1 の試験は NACA と航空資材本部が別々に行っているのに対し、母機仕様に改造された B-29 は 1 機しかなかった。そのため NACA の試験は9月25日まで実施できず、テストパイロットは XS-1 での飛行経験がなかったため、結局 NACA の飛行試験もイェーガーが行った。10月に入って航空資材本部は本格的に音の壁に挑戦していくこととなる。10月10日には過去最高のマッハ 0.997 を記録。次回の飛行で音速を超えることを決定する。

 1947年10月14日、通算 50 回目の飛行でイェーガーが搭乗する XS-1 は高度 6,100 m で母機から切り離され、2 基のエンジンに点火して緩上昇に移行。続いて残りの 2 基にも点火し、高度 10,670 m をマッハ 0.92 で通過した。高度 12,800 m に到達する前にエンジン 2 基をオフにして水平飛行に移り、その後再びエンジンを 1 基オンにして計 3 基で水平飛行を行った。その結果マッハ 1.06 を記録、人類初の有人超音速飛行となった。音速突破時には予想されていた衝撃波による振動もほとんど無く、意外なほどにあっさりと音速を超えてしまったという。この時イェーガーが機につけた愛称は「グラマラス グレニス (Glamorous Glennis)」(グレニスは彼の妻の名前)。

 イェーガーは音速突破をおこなう 2 日前の 12 日の夜間に乗馬していたところ、落馬し肋骨を骨折していた。イェーガーは当日、痛む患部を隠しながら XS-1 に搭乗しようとしたが、XS-1 の搭乗口を閉めるには前かがみになる必要があり、骨折している身には困難なことであった。しかし、そのことが周りに知れればテストパイロットから降ろされることは明らかであったため、イェーガーはリドレイ大尉にのみ事実を伝え、どうすればいいか相談をした。リドレイはモップの柄によって搭乗口を閉めることを提案し、無事イェーガーは XS-1 の搭乗口を閉めることができた。このエピソードは映画『ライトスタッフ』にも描かれている。

 その後イェーガーは11月6日にはマッハ 1.36、1948年3月26日にはマッハ 1.45 の XS-1 での最高速度を記録した。NACA が使用していた 2 号機も1948年3月10日に音速を突破した。しかしながら、音速突破の事実はしばらくの間公表されず、一般に知れ渡るのは1947年12月にニューヨークタイムズなどがトクダネとして発表した時であった。しかしこの後も空軍(1947年9月18日に陸軍から独立)はノーコメントとし、実際に事実が公表されたのは1948年6月15日になってからであった。

 XS-1 は1948年にX-1に名称を変更された。
全長:9.42 m
全幅:8.53 m
全高:3.30 m
自重:3,171 kg
全備重量:5,550 kg
エンジン:XLR11-RM-3×4
推力:2,722 kgf(合計値)
最高速度記録: マッハ1.45
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