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寒いですね。
冬ですから。
さしすせそして、
前々回は、ジョン・クーパーという人が、ツーリングカーレース用に、ミニを使ってレースに出したいと考えた。しかし、レースには、メーカー量産車でなければダメという規制があった。そこで、ジョン・クーパーは、ミニの生みの親、イシゴニスのところへ行ったまではよかったが・・・
イシゴニスは容易にジョン・クーパーの願い出を聞き入れなかった。イシゴニスにすれば、現状の850ccでコンプリートであって、「ミニをこれ以上速くする意味もないだろう」とクーパーをいなし続けた。イシゴニスは頑固なエンジニアだったのだ。(中略) ハリマンBMC会長「そこまで言うならミニを一台提供するから、近日中に試作車をつくって見せなさい」
今日はその続きからお話をしたい。
ファクトリーに戻ったクーパーは、急いで設計に取り掛かった。問題のディスクブレーキはロッキード社に頼んで特注品を作ってもらった。10インチホイールに収めるブレーキディスクの径は7インチ。これほど小さければどんな車にも流用できるし、かのクーパーがミニの改良を取り組んでいるのなら期待できる、とロッキード社はよんでいたのかもしれない。
そして、2週間後、ハリマンBMC会長は高性能版ミニの試作車に乗って、その場で生産の許可を出した。クーパーが作った試作車は、ノーマルのミニの3倍もエンジンパワーがあった。ハリマンはそれに気付かなかったはずはなかったが、100馬力近いミニを直ぐに量産するつもりもなかったのだろう。大企業のトップが、クーパーの情熱と熱意に打たれのだろう。
それでもハリマンは会長の立場を忘れずに、限定生産を条件にした。確かにユニークではあるが、多く売れるとは考えなかった。クーパーは、最低1,000台は作ってほしいと願った。レース規定の量産車最小ロッドが1,000台だったからである。それがクリアされなければ提案した意味がない。ハリマンはは内心その台数でも在庫を抱えると思ったが、一度出した許可を取り下げたりはしなかった。
1961年10月、提案者の名前を冠した高性能版、ミニ・クーパーが遂に登場した。わずか、1,000台のリミテッドモデルに相応しく、レビュラーモデルにはないツートンシートが用意されていた。その中には、ゴールドまたはシルバーを使ったブローシードという浮き彫り加工を施した生地もあった。その分価格は高く、同時にデビューしたミニの高級バージョンライレー・エルフより25£上回る£680と設定された。(ちなみに、クーパーが受け取った報酬は1台につき£1だった)
さて、どうなるのか、続きは次回に。
(出典):ミニ・フリークの日々(田村一七男著) :MINI THE COMPLETE ILLUSTRATIONS(尾崎豪著)
(2012/12/28 21:17)
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