1961 AUSTIN MINI COOPER1000 Mk-I 2012
12/9
日曜日

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暫し途切れていたMINIの歴史を遡るシリーズ。

MINIといえば、たいていの人はミニ・クーパーと思っている。ミニ = ミニ・クーパーと同義で扱われていることが多いが、実はそれなりに名前の謂われもあるし、中身も違うのである。今日はその辺りの伏線からお話をさせていただきたい。

通常のミニとまったく同じ形ながら、中身の違ったバリエーションは異彩を放つ存在。このモデルが登場しなければ、ミニは今日まで語られなかったのだろう。

英国はモータースポーツの国、特に車を使った競技が盛んである。F1から素人レベルの草レースに至るまで広がっており、早い時期から競技専門の車両製作会社やパーツメーカーが成立していた。

後にF1チャンピオンマシンを作るクーパー・カー・カンバニーが誕生したのは1947年10月、創立者は、チャールズとジョンのクーパー親子。町工場程度の小さな規模は、他にいくつもあるレース屋と大差はなかったが、レーシング・マシーン製作における類い希な勘があっり、クーパー・カンパニーの車は早さと信頼を得ていった。

やがて、指揮を執るようになったジョン・クーパーの頂点は、1959年と1960年のF1世界チャンピオンの獲得。(ジャック・ブラバム、ブルース・マクラレーンのドライバーがいた) ブラバムとマクラレーンの名前は、いずれもも後のF1チームに引き継がれた。

MINIの生みの親、アレック・イシゴニスとジョン・クーパーは古くからの友人だった。(詳細は出典の著書をご覧ください)

なぜ、ジョン・クーパーとミニが親密になったのか?
F1シリーズでチャンピオン争いをしていた1961年、2人のドライバー、ブラバアムとマクラレーンが日常の足としてミニに乗っており、そのミニをジョン・クーパーが改良するのである。この時期、クーパーはF1以外に、F2やフォーミュラ・ジュニア(現在のF3に相当)も手掛けており、使用したエンジンはBMCのAタイプだった。排気量は1,100ccに高められていたが、基本的にミニのエンジンと同型だった。つまり、クーパーはAタイプをチューニングするノウハウがあったのだ。

恐らく遊びのつもりでミニをいじってみたのだろう。ところが、ミニは思わぬ可能性を秘めていた。チューニングしたエンジンを許容するばかりか元々の操縦安定性と相まって、驚くべきパフォーマンスを発揮したのだった。この頃、クーパーは、フォーミュラカーとは別に、ツーリングカーレース用のマシン製作も行っていた。選んだのはルノー・ドーフィン。車体重量が軽いのでレースに向いていると見込んだが、思うような結果が出せずにいた。そこへミニが現れた。

現場主義のクーパーは、今直ぐにでもミニを使ってレースに出てみたくなった。
その場ですぐにミニの改良に取り掛からなかったのには理由があった。

レースではメーカー量産車を使う規定があった。
レース車両を作るには、まず市販されるミニのパワーを上げなければならない。そこでクーパーは、旧知のイシゴニスの元へ走った。

その後の展開は、次回へ続く。

(出典):ミニ・フリークの日々(田村一七男著)  :MINI THE COMPLETE ILLUSTRATIONS(尾崎豪著)


(2012/12/09 18:51)




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